上野にあるアヒルの記念碑を調べてみた!川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」とは?

誹風柳多留発祥の地

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京成上野駅の近くにある黄金のアヒルの記念碑をご存じですか?
これは、川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」の記念碑です。
「川柳」は5・7・5の17音で詠まれる定型詩のことですが、
最近はサラリーマン川柳をはじめ、一般公募のコンクールが開催されるようになり、川柳を詠む人が増えてきました。
でも、誹風柳多留って何でしょうか?今回は誹風柳多留や川柳の歴史について調べてみました!

川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」記念碑

JR「上野駅」から京成上野駅の方へ歩いていると、ピカーッと光り輝くものが!
誹風柳多留発祥の地
太陽の光に反射して光り輝く黄金のアヒルが目に飛び込んできます。
上野公園へ続く階段脇に建っているこの記念碑。
存在は知っていても、何の記念碑かは知らないという人が多いかもしれません。

記念碑を見てみると、「誹風柳多留発祥の地」と書かれています。
誹風柳多留
「誹風柳多留」・・・?聞いたことがありません。

誹風柳多留とは?

誹風柳多留
説明にはこのように書かれていました。

川柳の原点 誹風柳多留発祥の地
川柳は、江戸時代に江戸に生まれた17文字の庶民文芸として今日に伝わっております。川柳の名称は、宝暦7年(1757)に浅草新堀端にはじまりましたが、明和2年(1765)7月、呉陵軒可有という人が、初代川柳評の前句付万句の勝句(入選句)から17音の付句のみで鑑賞でき、深い笑いのある句を選び、今日(川柳の原点)とも呼ばれる「誹風柳多留」を刊行しました。このことにより川柳は、〈17音独立文芸〉として確立され、後に全国へと広がっていきました。この付近には、「誹風柳多留」の版元・星運堂(花谷久次郎)があり、俳諧書などを刊行するかたわら、三代にわたり、「誹風柳多留」を通じて〈川柳風〉の隆盛に貢献、川柳を「江戸文芸」の一つにまで育てました。「誹風柳多留発祥の地」は「文芸川柳発祥の地」でもあります。記念碑の「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」の句は「木綿」と号した誹風柳多留の編者・呉陵軒可有の作です。
平成27年8月
柳多留250年実行委員
台東区教育委員会

日本には古くから5・7・5・7・7の31音で詠まれる「和歌」がありました。
鎌倉時代に入ると、5・7・5と7・7に分け、5・7・5に対して別の人が7・7を付け、さらに5・7・5を付け、100句になるまで詠み続ける「連歌(百韻連歌)」が生まれました。
その後、その連歌に滑稽な言葉を盛り込むようになり、これは「俳諧の連歌」と呼ばれます。
そこから、お題の下の句に対して、誰が上手に上の句を付けられるかを競い合う新しい文芸が生まれました。
前句付けの点者だった柄井川柳が選んだ句の中から、呉陵軒可有という人が17音の付け句のみで鑑賞できて、深い笑いのある句を選び「誹風柳多留」にまとめて刊行しました。
その後、この付け句のみで意味が通じる句が「川柳」と呼ばれるようになります。
ちなみに、柄井川柳が最初の万句合を興行したとされる跡地には「川柳発祥の地」の石碑が建っています。(台東区蔵前4-37-8)

誹風柳多留
記念碑の横には下記のように記されています。

 孝行をしたい時分に親はなし
250年を遡る江戸に登場、一挙に市民の心をとらえた日本独自の短詩形「川柳」は、現在も伝統文芸として盛行を見ているが、その端緒となった呉陵軒可有著、花屋久活郎板「誹風柳多留」は、この地をふるさととして不朽の名をとどめると同時に、海外にまで知られる人気のユーモア人間詩となった。
その事績を永く顕彰、一碑を建立するものである。 後学三柳記
平成27年8月吉日
柳多留250年実行委員会

桶には『羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ』と記されています。
誹風柳多瑠
「誹風柳多留」の編者・呉陵軒可有が作った句「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」から、アヒルがモチーフなんですね。
誹風柳多留

まとめ

今回は京成上野駅の近くにある、川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」の記念碑についてご紹介しましたがいかがでしたか?
17音の付け句のみで鑑賞できる優秀な句を集めた句集が「誹風柳多留」だったんですね。
日本独自の文化である川柳。これを機に川柳を詠んでみてはいかがですか。