上野の開山堂(両大師)の御朱印や見どころ

開山堂

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上野にある開山堂は東叡山の開山である慈眼大師天海大僧正と、天海大僧正が尊崇している慈恵大師良源大僧正をお祀りしていることから両大師とも呼ばれています。
今回は開山堂(両大師)の御朱印や見どころをご紹介します。

輪王寺 開山堂(両大師)の基本情報・アクセス方法

【所在地】東京都台東区上野公園14-5
【TEL】03-3821-4050
【アクセス】JR「上野駅」・「鶯谷駅」より徒歩8分
【開創】明暦2年
【本尊】阿弥陀如来
【開門時間】8:00~16:00


輪王寺開山堂(両大師)があるのはJR「上野駅」から徒歩7分ほどの場所。
「上野駅」公園口を出たら目の前の上野公園通りを右に進みます。
上野駅
交差点を左に曲がると右手に立派な黒い門が見えます。
旧本坊表門
そしてその隣に、開山堂があります。
開山堂

論王寺 開山堂(両大師)の見どころ

上野にある開山堂(両大師)。
こちらは、東京で唯一の門跡寺院「輪王寺」でもあります。
門跡というのは皇族や公家が住職を務める寺院のこと。
旧本坊表門
先ほどの黒い門の前に「東叡山輪王寺門跡」の石碑が建っていました。
「天台宗東京教区」 の公式ホームページには輪王寺の歴史が載っていました。
承応3年(1654)に後水尾天皇の皇子の一品守澄法親王が正式に東叡山主の座につきます。
翌年、天台座主ともなられて、東叡山、比叡山、日光山の三山を兼帯。
その後、守澄法親王に「輪王寺宮」の称号が与えられます。

ただ、江戸時代には輪王寺というお寺は存在せず、山主の称号が輪王寺宮で寺号ではなかったのです。
しかし、戊辰戦争の結果、輪王寺の称号は一時途切れます。
その後、このことを残念がった東叡山、日光山の要請によって、明治16年(1883)に東叡山と日光山の両方に輪王寺という名のお寺が再興されました。
そして、2年後には「門跡寺院」としての再興を許されたそうです。
げんざい、輪王寺は開山堂と同じ敷地にあります。
〈参考文献〉
「天台宗東京教区」 東叡山輪王寺:http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/rinnoji/(閲覧日:2019/12/28)

山門前には「両大師」と書かれた立札が立っています。
開山堂
開山堂は1643年に亡くなられた天海大僧正を祀るために正保元年(1644)に建てられましたが、その後寛永寺本房内にあった慈恵堂から慈恵大師像を移し、慈眼と慈恵の2人を祀ったことから「両大師」と呼ばれるようになりました。

山門をくぐり境内を進むと、左手に手水舎があります。
東叡山寛永寺開山堂
龍の口から水が出ています。
下の方には獅子もいます。

お堂の前には常香炉があります。
東叡山寛永寺開山堂
開山堂は正保元年(1644)に創建されましたが、たびたび火災にあい、現在あるお堂は平成5年に再建されたものです。
寛永寺開山堂
堂内に入り、お線香を1本たててお参りします。
天海僧正の像は木造の座像で、寂後まもなく作られました。
たくさんある天海像の中でも優れたものの一つとされて、東京都の有形文化財に指定されています。
慈恵大師を描いた「元三大師画像」は室町時代初期の作品で、江戸庶民の信仰を集めてきました。
こちらは台東区の有形文化財に指定されています。

慈眼大師天海大僧正(1536~1643)は東叡山寛永寺を開山された天台宗の僧侶です。
寛永寺は徳川家の祈祷寺として、比叡山延暦寺を模して建てられました。
108歳で亡くなられたと言われ、長寿だったことから健康長寿の大師様としても親しまれています。

一方、慈恵大師良源大僧正(912~985)は天海大僧正が尊敬していた平安時代の僧侶です。
度重なる火災で荒廃した比叡山を復興し、教学の信仰に尽力され「比叡山中興の祖」と称賛されています。
また、今ではおなじみのおみくじの創始者ともいわれています。
正月三日に亡くなったことから「元三大師」とも呼ばれています。

良源大僧正が疫病神を追い払った時のお姿を護符にした「角大師(つのだいし)」や小さな良源大僧正のお姿が豆粒のように33体並べられたお札「豆大師(まめだいし)」という魔除けの大師が広く信仰されました。
角大師の護符は見たことがある方も多いかもしれませんが、とても恐ろしい姿をしていますよね。
ある時、疫病が流行り、その疫病神は良源大僧正にも襲い掛かりました。しかし、良源大僧正はそれを追い払います。
そして、疫病で苦しむ人々を救うために、全身が映る鏡の前で瞑想したところ、鏡に映った姿が骨と皮だけの鬼の姿に変わりました。
その姿を弟子に描かせ、護符として配ったそうです。このお札を玄関や家の戸口に貼れば、あらゆる厄災から逃れられると言われています。

また、徳川家光の世継ぎ出征祈願を命じられた天海大僧正は、慈恵大師のお姿を安置して祈祷を行ったところ、四代将軍家綱が誕生したことから、慈恵大師は子授け大師として信仰されています。

境内に入ってすぐ右手には阿弥陀堂があります。
開山堂
こちらには中央に阿弥陀如来、右に虚空蔵菩薩、左に地蔵大菩薩の3体が並んでいらっしゃいます。
開山堂
暗い阿弥陀堂の中で光背が光っています。

また左手には地蔵菩薩がいらっしゃいます。
開山堂
江戸時代初期の銅鐘や銅燈籠もありました。国の旧重要美術品です。
輪王寺開山堂
こちらは法華塔。
輪王寺開山堂

お堂の手前右には大きく枝を広げた桜の木があります。
開山堂
こちらの桜は「御車返し(みくるまがえし)の桜」といって、1本の木に一重と八重の桜が同時に咲きます。
開花時期はソメイヨシノよりやや遅い、両大師縁日の4月3日ごろから1週間ほどということです。
開山堂-御車返しの桜
江戸のはじめ頃、後水尾天皇が京都の常照皇寺に花見に行かれた時に、あまりにその桜が美しかったため、帰り道に牛車を戻して再びご覧になったことから「御車返しの桜」という名がついたそうです。

後水尾天皇の皇子、輪王寺宮が寛永寺の山主に就いたことが縁で、この桜が植えられたそうです。
現在植えられている御車返しの桜は江戸時代以来3代目です。

また、お堂左手には古代蓮「大賀ハス(オオガハス)」があります。
東叡山寛永寺開山堂
このハスは2000年以上前に地上に落ち、長く泥の中で眠っていた実が開花したものを株分けしたそうです。
大賀一郎博士の名を冠して「大賀ハス」と名づけたそうです。
夏になると見事な花を咲かせます。

境内右には谷中の幸田露伴旧宅の門があります。
幸田露伴旧宅門
幸田露伴と言えば谷中の五重塔をモデルにした小説「五重塔」が有名です。
五重塔は谷中の家に住んでいた時に日々五重塔を眺めながら書かれました。
家はもう残っていませんが、門だけこちらに移築したそうです。
風情のある瓦葺の門です。
幸田露伴もこの門をくぐったのかとしみじみ思いながら、門を通ると、左手には「輪王殿」があります。
輪王殿
多目的な会館として建てられ、前後に2つの会場があります。

そして、輪王殿の表門となっているのが「旧本坊表門」です。通称、黒門。
旧本坊表門
↑こちらは内側から見た門です。
表に回ってみましょう。
旧本坊表門
大きくてとても立派な門です。
もともと上野公園一帯が寛永寺の境内でした。
現在の噴水広場あたりに根本中堂があり、東京国立博物館敷地内に本坊がありました。
本坊には山主の輪王寺宮法親王が住んでいました。
本坊の敷地は3500坪もあったそうです。
しかし、慶応4年の上野戦争で寛永寺は大部分が焼失してしまいます。
でも、この表門は戦火を免れたそうです。
旧本坊表門
明治11年に帝国博物館(現・東京国立博物館)が開館し、正門として使われていましたが、関東大震災後、改築に伴って門をこちらに移築したそうです。
門扉には上野戦争の弾痕の跡も残っています。

開山堂の御朱印のいただき方

開山堂
御朱印は本堂の中でいただけます。

開山堂御朱印
中央に厄除 両大師、左側に上の輪王寺門跡と書かれています。

こちらの御朱印帳は寛永寺根本中堂と同じ紺色と緑色に三つ葉葵の紋が押された御朱印帳です。