天海僧正毛髪塔のアクセス方法や歴史、天海僧正について

天海僧正毛髪塔

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上野公園には天海僧正の髪の毛を納めた塔があるのをご存じですか?
天海大僧正と葉、上野の寛永寺をはじめ、清水観音堂や不忍池弁天堂などを建立した人物です。
また上野公園に桜を取り寄せ、不忍池に蓮を植えたのも天海大僧正です。
そのおかげで、現在も上野公園はわたしたちの憩いの場となっています。
今回はそんな天海大僧正の毛髪が納められている毛髪塔や天海大僧正についてご紹介します。

天海僧正毛髪塔

天海僧正毛髪塔
天海僧正の毛髪塔があるのは、上野公園内。
上野の森美術館の向かいにあります。
もともと上野公園一帯は天海大僧正が創建した寛永寺の境内でした。

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天海大僧正は長寿を全うし、寛永20年(1643)に子院の本覚院で108歳で亡くなりました。
遺言によって日光山輪王寺慈眼堂御廟に葬られましたが、亡くなられた本覚院跡地のこちらには本覚院第一世の晃海によって供養塔が建てられました。
のちに、本覚院に伝来されていた毛髪を納めた宝塔が建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになりました。
天海僧正毛髪塔

天海僧正について

天海僧正
南光坊天海は江戸時代初期の天台宗の高僧です。
天保5年(1536)に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれたとされます。
11歳で出家し、14歳で天台宗を学び、比叡山延暦寺の実全に師事して学びを深めます。
その後、江戸崎不動院や川越喜多院などの住持となります。
川越喜多院の名僧豪海の門に入って、僧名を随風から天海に改めます。

慶長15年(1610)に、駿府城で徳川家康と初めて会います。
天海75歳、家康68歳の時でした。
家康の信頼を得た天海は家康・秀忠・家光の三代に渡って仕えます。
元和2年(1616)、家康が亡くなると、遺言によって家康を神格化し、神号を「権現」とします。
また、日光東照宮の造営を指導しました。

その後、天海僧正は江戸幕府安泰のためには、江戸城の方位学的な吉相を高める必要があると考えます。
そこで、将軍秀忠と相談し、江戸城の鬼門(北東)である上野不忍丘に「東叡山寛永寺」の建立を進言し、その3年後の寛永2年(1625)、三代将軍・家光の時に寛永寺を建てました。
東叡山とは東の比叡山という意味で、比叡山が京都の鬼門に置かれて都を守っていることに倣って、寛永寺を建てたのです。
さらに、琵琶湖弁財天を真似した「不忍池弁天堂」や京都の清水寺を真似した「清水観音堂」などを次々に建てます。

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江戸庶民の憩いの場とするために、吉野の桜を取り寄せて、上野の山を桜の名所とします。
また不忍池には蓮を植えて放生地としました。
現在も、上野公園は憩いの場として人々に親しまれています。
そして、寛永20年(1643)に子院の本覚院で108歳で亡くなりました。
生前の功績を讃えられて、朝廷から「慈眼大師」の大師号を贈られました。

長寿の秘訣について、次のような歌を残されています。
「気は長く つとめはかたく 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ」
「長命は粗食 正直 日湯 陀羅尼 おりおり御下風あそばさるべし」

つまり、気は長く持ち、しっかり働き、色欲は抑え、食べ過ぎず、心は広く持ちなさいということです。
そして2つ目の「日湯」は毎日お風呂に入ること、「陀羅尼」はお経を読むこと、「御下風」はおならのことです。
時々おならをしなさいということ。ユーモアがある人だったのですね。