谷中にある幸田露伴の居宅跡|『五重塔』はここで生まれた

幸田露伴居宅跡

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明治の小説家として有名な幸田露伴。
そんな幸田露伴の代表作といえるのが『五重塔』です。
『五重塔』は露伴が谷中に住んでいた時に、日々谷中の五重塔を眺めながら執筆した作品です。
今回は谷中にある露伴の旧居跡を訪ねてみました。

谷中に住んでいた明治の文豪・幸田露伴

幸田露伴は慶応3年(1867)8月22日に江戸武蔵国江戸下谷三枚橋横丁で生まれます。
現在の東京都台東区上野4丁目にあたります。
翌年、上野戦争が起こったため、浅草諏訪町に引っ越し、谷中、神田と転々とします。
1889年『風流佛』を発表し、小説家の山田美妙に絶賛されます。
その後、再び谷中に移住し、その頃に『五重塔』(1892)などを発表し、作家としての地位を確立しました。
東京府第一中学(現・都立日比谷高校)で同級生だった尾崎紅葉とともに、「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を築きます。
1937年4月28日には第1回文化勲章を授与され、帝国芸術院会員になります。
1947年に満79歳で亡くなりました。

幸田露伴の旧宅跡を訪れました

幸田露伴居宅跡
谷中霊園に隣接した住宅街の一角にあるマンションの前に「幸田露伴居宅跡」という案内板が立っています。
住所は下谷区谷中天王寺町21番地(現在の台東区谷中7丁目18-25)。
この場所に幸田露伴は明治24年(1891)1月から約2年間住んでいたのです。
幸田露伴は日々この家から谷中の五重塔を眺めていました。
そして、この天王寺五重塔をモデルにした『五重塔』を執筆しました。
天王寺五重塔は露伴の家からすぐの、谷中霊園内にありました。
現在も跡地として残っています。
天王寺五重塔
五重塔は寛永20年(1643)に感応寺(現・天王寺)五重塔として建てられましたが、明和9年(1772)に明和の大火で焼失してしまいます。
その後、寛政3年(1791)再建され、谷中のシンボルとして親しまれていましたが、昭和32年(1957)に心中による放火で焼失してしまうという波乱の歴史をたどっています。

幸田露伴の『五重塔』について

『五重塔』は1892年(明治25年)11月に発表された小説です。
主人公は愚鈍な性格から「のっそり」と呼ばれる十兵衛という大工の男。
谷中感応寺に五重塔が建立されることを聞いた十兵衛は、もうすでに世話になっていた親方の源太が手掛けることが決まっていたのに、自分が棟梁になりたいと志願します。
五重塔を建てることに強い執着心を抱き、周囲とぶつかり合いながらも塔を完成させていくというお話です。
その中でも、後半の五重塔を嵐が襲うシーンは高く評価されています。

幸田露伴が住んでいたころからあったサンゴジュ

幸田露伴-サンゴジュ
案内板の後ろには珊瑚樹(サンゴジュ)という木が植えてあり、台東区の景観重要樹木に指定されています。
サンゴジュとはスイカズラ科の常緑広葉樹で、夏から秋にかけて宝石のサンゴのような小さな赤い実をつけることからその名がついています。
なぜこの木が景観重要樹木に指定されているのかというと、幸田露伴が住んでいた頃からあったからです。
しかし、このサンゴジュ、幹の途中で切断されていました。
幸田露伴居宅跡

上野
少し前まで後ろのマンションと同じくらいの高さまであったようですが・・・(;´・ω・)
今年の台風で折れてしまったでしょうか?!残念です。

幸田露伴旧宅の門は現存!

幸田露伴旧宅門
谷中の家はもう残っていませんが、門がまだ残っています。
その門があるのは、上野駅から徒歩8分ほどの場所にある開山堂(両大師)の境内。
瓦葺の簡素な腕木門ですが、風情があります。

開山堂

上野の開山堂(両大師)の御朱印や見どころ

2019年12月28日

幸田露伴の旧居跡のアクセス方法

「日暮里駅」西口から幸田露伴居宅跡まで行く方法をご紹介します。
①「日暮里駅」北改札を出たら左手の西口から地上に出ます。
日暮里駅
②左の御殿坂を上ります。
御殿坂
③セブンイレブンの手前の道を左折します。
進んでいくと人気のケーキ屋さんイナムラショウゾウがあります。
④突き当りを右へ。
⑤さらに突き当りを左へ曲がると角が幸田露伴居宅跡です。

そこから、五重塔への行き方もご紹介します。
①居宅跡の前の道を谷中霊園に沿って進んでいきます。
この道を「ぎんなん横丁」といいます。
②T字路を左へ曲がります。
谷中霊園
この通りは谷中霊園を東西に走るぎんなん通りです。
③進んでいくと十字路の左側に駐在所があります。
駐在所の裏に五重塔跡があります。